精神も肉体もボロボロの自分を救ってくれた旦那

2018/02/14

いつのだったか、夜にダンナとヨメさんの話をみて。
私も語りたくなったから語る。
スペック
旦那(42)
わたし(21)
書き溜めはしてないのでゆっくり
初スレたてだから不備はゆるしてくれ まず、私の元家族は 父母わたし弟の四人家族。
ちなみに弟は私より10個離れてた。
そして、うちは転勤族だった。
わたしは生まれてから9回転勤していて、学校も幼稚園から
高校まで二つは変わっている。
小さい頃は転勤しても友達作りになんら不便はなかったんだが
小学校中学年くらいから基本的なグループができてるところが多かった
転校生のわたしは最初は物珍しさで招き入れられるが、根本的に
地元の話などが多いためついていけず結局はぶられることが多かった。
そこでアホなわたしはモノで釣って友達を作り出す。
おかしあげるから。
うちでゲームできるから。
そんな誘いに乗ってくる子と友達だなんて、母が見逃すはずもなく
お菓子もゲームも禁止になり、また一人になった。
同級の女子から おまえなめてんじゃねーよwって手紙をもらったり 、
すれ違いざまに殴られたりした。
母に相談しても、母は いじめに負けるな!って言うだけだった。
学校行きたくなくて引きこもったらドアを破壊されてランドセルと
共にそとに投げ出されたりした。
ちなみに父は激務で家におらず、弟はまだこの時はうまれてません
そんな感じだったけど、最後は まぁ、また引っ越すからいいか って諦めてた。
そんな中、弟ができた。
母もたまに見る父も弟らばーになってしまった。
特に産後は弟と母は母の実家へ。
父は激務で家に帰れないということで
三ヶ月ほど母の友人という人の家に預けられた。
正直いまだにその人の名前をしらない。
その人の家で、家事を叩き込まれた。
その家の人もいないことが多かったから、わたしが他人の家の家事してた。
その家には子供はいないので、いつも一人で家事をしてご飯作って
食べて片付けて一人で寝てた。
おかーさん!って最初は泣いたけど、殴られて怒鳴られたから何も言わなくなった。
その後、家に帰りおかーさん!と抱き着こうとしたら払い除けられた
腕に弟がいたから
他人の家の話をしても それはお前がわるい!って怒られた
おかーさん!って小4くらいの子が恋しがるのがなにが
いけないのかいまだにわからないんで、少し省いて小6になるときに引越した。
今度は海外だった。
アジア圏の親日の国。
そこで、わたしの学校の問題が浮上した。
日本人学校に入りたいが、都市部の日本人学校には献金しなきゃ入れない
地方の日本人学校なら献金はいらない
父の会社は都市部
でも会社は献金を出さないという
その後、父一人単身赴任になり、母私弟の生活が始まった。
父がいない生活は、なにも変わらないかと思いきや劇的に変わった。
主に母が。
まず、母が酒飲みになった。
母の家系は酒乱が多く、母もその系統だとその時に知る。
毎日ビール瓶を5本近くのみ、わたしに殴りかかる。
わたしがなき叫べばうるさいと玄関の外へ出した。
ちなみにあちらの日本人向けのマンションの玄関は二重扉で
檻みたいなのもついてました。
その二重扉と檻の間に出され、泣き叫ぶわたし
手を叩いて笑う母
寝てる弟
家ではわたしの部屋をもたせてもらったが、部屋なんて関係なく
寝てる真夜中に酔っ払って入ってくる
机やタンスを全てひっくり返してすべて朝までに片付けろ!と
言われるのがよくあった。
ちなみに片付けてる最中にまた荒らしにくる。
暇人か。
ちなみに母は弟の世話はかいがいしくしてました。
わたしのご飯はなくても弟にはきちんとやり、風邪ひいたら病院へ。
わたしが風邪?ひいた時に放置され、今では片耳が聞こえなくなりました。
学校では、ハーフ、現地、日本人組に別れてました。
クラスは11人しかいないのに、お互いをいがみあってた。
わたしはここでもはぶられてました。
ハーフ現地組には仕方ないんですけど日本人組には貧乏人!と
罵られてましたwあちらの言葉でw
悪口って日本語じゃなくてもわかるんだなって初めて知った
あちらの日本人組は金持ちばかりで、プリクラを撮りまくって自慢してた。
あちらではプリクラか1枚千円ちかくする。
それを何回もとってきた!と自慢してくるのをみて、金持ちか!!と
驚愕したのを覚えている。
とりあえず、学校にも居場所はなかった。
けど家にはいれないからしぶしぶ学校にいってたちなみに、父がたまに帰ってくると母はいい母に戻るので
父に訴えても無駄だった。
最後には訴えすぎて父にまで殴られて 罵られた。
親を信用しないぐずが!って感じで。
それをネタに、父がいないと母の荒れ方が増し、
なにもないのに殴られてたりした。
床がタイルの部屋に投げ飛ばされて頭痛かったりしたけど、
一番は母に反抗して殴り合いをしたとき首締められて泡吹いて
ほんとに死ぬかと思ったのが未だに怖い。
その時から、なにもされない弟が羨ましかった。
んで、中二のとき、また引っ越した
今度は父の転勤じゃなくて、母が病気になったから。
ガンになってたんだって!
わたしと弟は父方の祖父母に引き取られた。
この時に両親は離婚してたらしいけど詳しく教えてもらってないからしらない。
長々と過去かいてもあれなので、少し省略。
この家ではど田舎の男尊女卑のかたまりでした。
弟は遊んでて何時に帰ってきても許された。
わたしは学校の日でも夕方五時まで。
美術部に入ってたから
体育祭の看板とか書いてたら遅くなるんだけど5時近くなると
爺様が軽トラで学校前待機。
帰宅すれば夜ご飯の仕込みとトイレ掃除と洗濯物たたみ。
あと風呂焚き。
まだ五右衛門風呂でした。
休みの日は午前10時から外出おっけーの門限はおやつの時間の三時。
帰ってこなかったらド田舎のスーパー情報網を使って探してくる。
家につれて帰らされれば、家事全般に薪割り、畑の手伝い。
客人がくるときには鶏を生きたままさばかされました。
鶏のタタキを食べる県では未だにド田舎では生きた鶏をさばきます。
そんな感じのがんじがらめの生活。
ちなみに、祖母の情報網をうまく抜けて少し遅れて四時頃に帰ると質問攻め。
一緒に遊んだ友達に電話確認されます。
財布チェックも毎回で、月に三千円のお小遣いを何に使ったかレシートつきで報告。
がちゃがちゃとか回してたら怒られました。
んで、下着や文具も三千円からになりました。
体格が良かった私は、いい下着をつけないと垂れるレベルだったのに
しまむらしか買えずサイズが違いすぎたのか高校時代から垂れ乳でしたはい
そんな生活で、頭がおかしくなったのか高校に入ると荒れました。
ちなみに高校も祖母指定、その他受験は許されませんでした。
そして携帯も私だけなかった、パソコンもなし。
辛かったw
高校では友達はできたものの、携帯もパソコンもなく、家電も禁止されて
いたので連絡は学校のみ。
だからあんまり遊んだりは出来なかった。
でも、友達はめっちゃ心配してくれて未だに友達です。
この頃に、真夜中ならジジババは寝てることに気づき、窓からよく脱走してた。
川が近くにあって、堤防でぼやっと星空見てるのが好きだった。
そこで、同い年の男友達と会って、悪いことしまくった。
まぁ、悪いことっていっても酒タバコ夜更かしだけど。
友達となにも考えずに遊ぶのがこんなに楽しいんだ!って知った高1の夏。
川辺で花火したりしたよ!
警察と追いかけっこはスリリングでした(捕まったらリアルに終わるからw)
で、調子に乗って酒タバコしてたら金がなくなるわけで。
下着や文具かえないわけで。
ジジババの財布から盗みました。
二千円。
弟がみてたらしくその日にちくられお説教。
この時、はじめてブチギレた。
高校生が下着も文具も三千円!っておかしいだろ!遊べないじゃん!
みんな遊んでるよ?なんで遊んじゃダメなの?なんでスカートはいたら
阿婆擦れっていうの?
みんなはいてるよ?!なんで?
って感じで。
答えはシンプル
うちが普通なの!周りは馬鹿な女ばっかりなの!
って婆様から。
友達馬鹿にされてまた切れかけたけど、爺様に蝿たたきで
顔ビンタされて悲しくて泣いたんで、その時から記憶がとぎれとぎれです。
とりあえず、精神病んで病院へつれていかれました。
ジジババには 恥さらし!と言われ 小学生の弟にはキチガイ扱い。
薬飲んでも寝れなくて夜抜け出して 男友達と遊んで。
こいつも悪友だけど無駄にいいやつで、わたしが遊んでて疲れて
寝たらわざわざ毛布家からとってきてかけてくれたり。
外の汚い地面なのに一緒に寝てくれた。
あ、ちなみにこいつとはなにもありません。
んで、…

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