大学で声を掛けてきた先輩は昔よく面倒を見てくれていたお姉さんだった

2018/10/14

ボクが大学に入学したとき、白いブラウスにタイトなジーンズを穿いて、
腰まである長い黒髪を靡かせて、颯爽とキャンパスを歩く先輩がいた。
小さめのヴィトンのバッグを肩から提げて、バインダーで纏めたテキストを持って歩く姿は、
どんなドラマの中の主人公よりも格好良かった。
「ちょっと、キミ」
ある日、校門を潜ったところでそのお姉さんに呼び止められると、ボクは思わず後ろを振り返った。
後ろには誰もいない。
ボクはお姉さんの方に改めて視線を戻し、少し首を傾げながら自分を指差すと、
「そう、そこのキミ」
と言ってお姉さんは頷いた。
「ボクですか?」
「ボク以外に誰もいないことは、今振り返ってみて確かめたんじゃないの?」
強烈な言葉のカウンターパンチを浴びた。
ボクがバツの悪そうな顔をするとお姉さんは、
「新入生でしょ?」
と訊いてきた。
コクリとボクが少しだけ頷くと、
「ねぇ、私たち、どこかで会ったよね?」
と言い出した。
(えっ?こんな綺麗なお姉さんがナンパ?しかも、学校で?)
ボクが露骨に驚いて見せると、
「あ…、そういうのじゃないから」
ときっぱり否定された。
少し気味が悪くなって、その場を立ち去ろうと校舎に向かって歩き出すと、お姉さんが後ろからついてきた。
歩きながらお姉さんが質問を重ねる。
「ねぇ、どこの高校?」
「中学は?」
「どこに住んでるの?」
これが普通のお姉さんだったら無視してしまうのだろうけれど、いつも綺麗だなと思っていた人だったからつい答えてしまった。
するとお姉さんはボクの行く手を塞いで、
「ハル?」
そう訊いてきた。
ボクは、思わず立ち止まった。
顔を上げてお姉さんを見てみると真っ直ぐにボクのことを見ていた。
長くはないボクの人生の中で、タカハルという名をハルと呼んだことのある人はひとりだけだ。
「ミキちゃん?」
長い間忘れていた名前が思わず口をついて出た。
途端にお姉さんの端正な顔が笑顔で一杯になって、
「ハルだよね?ハルぅ」
と言って抱きしめられた。
「うわ、公衆の面前で・・・」
最初は周りの人の目が気になったが、じきにお姉さんの胸がボクの胸に当たっていることの方が気になった。
ミキちゃんとは父親同士が同じ会社で働いていて、小学校の頃、山の中腹にある同じ社宅に住んでいた。
小学校までは、山を降りて歩いていく結構な道程で、集団登校が義務付けられていた。
ボクは小学校1年生から3年生のときまで、同じ社宅に住んでいる年長さんのミキちゃんに連れられて、登下校をしていた。
ミキちゃんはボクを本当の弟のようによく面倒を見てくれて、ボクはそんなミキちゃんに子供なりの淡い恋心を抱いていた。
学校の帰りにはミキちゃんとはよく道草をくって、近くの池でザリガニを釣ったり、小川でトンボのヤゴを採ったりして遊んでいた。
そう言えば、ウシガエルのオタマジャクシを捕まえて、暫く飼っていたが、死なせてしまったことがあった。
あんなに可愛がっていたのに、死んだ途端に気持ち悪くなって近所の小川に捨ててきたら、母親にこっ酷く叱られた。
「きちんと埋めてあげなさい!」
そう言われて、雨の中を死んだオタマジャクシの骸を拾いに言って、泣きながら空き地で穴を掘っていたら傘を差し出して手伝ってくれたのがミキちゃんだった。
雨の中、ひとつの傘の中で両手を合わせて拝んだ後、ボクたちは社宅の粗大ゴミ置き場に行って雨をしのいだ。
ミキちゃんはびしょぬれのハンカチでボクの顔を拭いてくれて、手や足についた泥を拭ってくれた。
二人でひとつの傘に入っていたので、雨に濡れたミキちゃんのシャツがちょっとだけ透けて見えていたのを覚えている。
その時、ミキちゃんがクンクンと鼻を鳴らしてボクの手の匂いをかいだ。
死んだオタマジャクシの匂いでもするのかなと思っていたら、こんどはボクの頭の匂いを嗅いで、
「ハル、ちゃんとお風呂で頭洗ってる?」
そう言われたのを鮮明に思い出した。
「うわ、嫌なこと思い出しちゃった・・・」
ミキちゃんが中学に上がる前に、お父さんの転勤でどこかに引っ越してしまったので、ミキちゃんの顔は忘れてしまっていたが、幼心にも
「頭洗ってる?」
のひと言はボクのトラウマとなって、それ以来大嫌いだったお風呂にも自分から入るようになって、今では朝のシャワーを欠かさない。
「懐かしいねぇ、何年ぶりぃ?」
少しはしゃいだ感じのミキちゃんの声で現実に引き戻されたボクは、改めてミキちゃんの顔をまじまじと見つめた。
ミキちゃんって、こんな顔してたんだ・・・。
「私の顔に穴が開いちゃうよ」
ミキちゃんがそう言って笑ったところで、再び我に返った。
「ねぇ、ハル、今日の講義は何時まで?」
「今日は午前中だけですけど…」
「じゃあ、お昼に学食で待ち合わせでいい?」
ボクが小さく頷くのだけ確かめると、ミキちゃんは踵を返してボクが目指していたのとは別の校舎に向かって歩いていった。
呆然とミキちゃんの後姿を見送っていると、後ろからボクの背中を肘で突付いたヤツがいた。
「今の誰?」
同級生の柴田に訊かれたが、ボクは曖昧な返事をして、そのまま目的地の校舎へと向かった。
大学に入学して二ヶ月、お姉さんのことが何となく気になっていたのは、お姉さんが綺麗で格好良かったからか、実は知り合いだったからなのか、どっちだろうと思いながら講義を聞いていると、あっという間にお昼の時間を迎えた。
お姉さんは構内でも結構な有名人だったから、実はフルネームまで知っていたのにどうしてミキちゃんと結びつかなかったのだろう。
子供の頃は、女の子の顔なんて気にしてなかったからかな。
でも、雨に濡れたシャツから透けて見えていたおっぱいらしきものだけは、記憶として鮮明に残っていた。
ミキちゃんが引っ越して行くとき、ミキちゃんはボクを件のゴミ置き場に連れて行って、唇が半分だけ重なるようにしてキスをしてくれた。
どうしてそうなったのかは覚えていない。
それはボクのファーストキスで、ミキちゃんのことは大好きだった筈なのに、ミキちゃんと別れて家に戻ったとき、ボクは洗面所で口の端に石鹸をつけて洗った。
ボクはその頃潔癖症で、親の食べかけたものも口にすることができず、中学に入ってからも友達同士でのペットボトルの回し飲みや、水筒のお茶を分けてもらうのも苦手だった。
お昼時の学食は混んでいて、ミキちゃんの姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
「ハールっ」
後ろから声を掛けられて振り返るとミキちゃんが立っていた。
「混んでるから、他へ行こうか?」
そう言われて首だけを突き出すように軽く頷くと、ミキちゃんは構内の駐車場に向かって歩き始めたので、ボクは慌てて追いかけた。
何台も停まっている車の前を足早に通り過ぎて、駐輪場近くまでくるとミキちゃんはメタルグレイのバイクの前で立ち止まった。
そして鍵を取り出すと、バイクから真紅のメットを取り外してボクに投げて寄越した。
バイクのタンクの横にNinjaと書いてあって、バイクに詳しくないボクでもそれが原付ではないことは一目で分かった。
「直ぐそこだけど、被っておいて」
そう言われたけれど、あまりにも意外な展開に固まっていると、
「ほら、こうして…」
とメットをボクの手から取って頭に被せようとしたところで笑い出した。
ミキちゃんのヘルメットはボクの頭には小さすぎて、帽子のようにつっかえてしまった。
「ハル、結構、頭大きいんだね!」
"ミキちゃん、ストレートすぎてイタいよ”
気にしていることをグサリと言われて、ボクはちょっと落ち込んだ。
「ミキちゃん、世の中の人がみんな、ミキちゃんみたいに八頭身だと思わないでよ…」
ミキちゃんは大きくて白い歯を見せてメットをボクから奪い取ると今度は自分で被ってバイクに跨った。
「乗って」
「あの、こんなの乗ったこと無いんですけど・・・」
「大丈夫、大丈夫」
抵抗しても無駄だと知り、ボクは覚悟を決めてカバンを斜め掛けにするとミキちゃんの後ろに跨った。
するとミキちゃんが身体を捻ってボクの腕を取って自分の腰に捕まらせた。
掴まった瞬間、セルが回る音がして、エンジンがかかったかと思うとミキちゃんの左足がガチャリとギアを踏むとバイクは発信した。
「ぎゃー、死ぬぅー」
それまでに経験したことのあるどんなジェットコースターよりも怖かった。
ミキちゃんの腰に抱きついて、と言うよりも、もう背中全体にしがみついていた。
背中に身体を密着させていたのだから、エロい、邪な感情が湧き上がって然るべきシチュエーションだったにも拘らず、ボクはただ、ただ、恐怖と戦っていた。
「着いたよ」
ボクはバイクが止まってもミキちゃんの背中にくっついたままで、固まっていた。
腕をポンポンと軽く叩かれて漸く腰に回した腕を解き、バイクから降りて気がつくと、ボクたちはキャンパス内を半周して反対側のところある学食の前に来ていた。
「こっちなら空いているから」
格好良く足でスタンドを蹴り出してバイクを停め、メットをバイクに繋いで鍵を掛けるとミキちゃんは、
「行こ」
と言って先に歩き出した。
「ハル、何にする?」
券売機の前でミキちゃんに訊かれて、ボクがハンバーグとスパゲッティのついた日替わり定食のボタンを指差すとミキちゃんは、
「私も」
と言って、二人分の食券を買ってくれた。

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