母親が連れてきたおっさんと高校生の頃にセックルしてた
2018/09/23
ちなみに女です。
私と弟は、父親と愛人である母親の間に生まれた婚外子。
父親はとても羽振りがよく、当時は父の立てた一軒家に母と弟の三人で暮らしていた。
家に来るたびに大きなプレゼントを抱えてくる父親のことが、当時は大好きだった。
おしゃれ好きの母は趣味も兼ねてブティックでパートをしていたけれど、父からの送金で当時は裕福な暮らしをしていた。
小学校四年生くらいから、母のパートが増えた。
父がくれるプレゼントが貧相になって来た。
世の中が不景気になったという事は、子供ながら耳にしていたので、何となく状況は理解できていた。
段々父が家に来なくなり、母は夜もスナックで働き始る。
中学に入る直前の春休み、2LDKのアパートに引っ越すことになった。
父は、引っ越してすぐに一度顔を出したきり。
それから暫くして、あぼんした。
顔も見たことが無い私の兄弟や、昔うちに来てヒステリーを起こした本妻も一緒に。
父の葬式にはもちろん出ていない。
ただ、うちに借金取りが来るということはなかったし、最後の財産である車も手放さずに済んだので、
父は私たちに非が及ばないよう尽力してくれたのだと思う。
父の49日がすぎたころ、酔っ払った母が連れてきたのがおっさんだった。
おっさんは当時26才。それでも、中二女子から見たら立派なおっさんだ。
母曰く役者の卵で、小さな劇団に所属して、竹野内豊を育てた人に目をかけてもらっているとかいないとか。
大層イケメンだけど、家の中ではとてもむっつりしていた。
私とも弟とも話さない。
役者というけれども、舞台の観覧に誘われたことも、どんな仕事をしているか聞いたことも無い。
典型的なニートだった。
おっさんは母から小遣いを貰っていた。
母親の出勤の時間になると起きて、車で職場まで送り迎えをしていた。
それから1日車でぶらぶらして、母と一緒に夜遅く家に戻った。
ある日、突然帰りに雨が降って、急いで帰ったらおっさんと弟が家にいた。
弟は、いつの間にかおっさんの携帯番号を入手していて、迎えに来てもらったそうだ。
そのときはじめて、おっさんも多少は役に立つんだと知る。
おっさんと弟は仲良くなっていて、一緒にゲームをしたりしていたみたいだけれど、私とは相変わらずだった。
おっさんと同世代の担任が、いかにもロリコンで、その影響から大人の男がキモかった。
クラスメイトに「おっさんと出来てるんだろ」なんてからかわれていた。
まあ、理由はいろいろだけど、私なりに父親に対する思いもあって、複雑だったんだ。
そんな感じで世間に後ろ指を差されながらも、おっさんは相変わらずふらふらしていた。
母は昼も夜も仕事していたから、よくよく考えると家事はおっさんがやっていたのかもしれない。
食事は私が作っていたけれど、その頃掃除とか洗濯をどうしていたのか全く覚えていない。
でも、家はそれなりに片付いていたし、お風呂にも毎日入っていた。
そう考えると、女1人で二人の子供とおっさんを養い、衣食住を満足に提供してくれていた母はすごい。
仕事が休みの日は好物を作ってくれたし、運動会なんかのイベントにもお弁当を作ってきてくれた。
学校と仕事の休みの日は、親子三人で出かけたりもした。
おっさんはそういう空気を読めるらしく、学校のイベントや親子の外出にしゃしゃり出てくることはなかった。
車もないから、多分うちで大人しくゲームでもしていたんだと思う。
私は母子家庭だったけれど順調に地元の公立高校に進学した。
大学は流石に無理だろうから、アルバイトでもしようと考えていた矢先、母親が失踪した。
高校1年生の、丁度夏服に着替えた頃。
家に帰ると、テーブルの上に30万入った封筒があった。
部活してから帰ってきた弟に、何のお金か聞いても、分からないと。
とりあえず大金でびびったので、お金は引き出しにしまって、ふたりで晩御飯を食べた。
何となく眠れず、母の帰りを待つが、12時になっても車の音はしない。
1時ごろ、電話が鳴った。
おっさんからだった。
母親が帰ってきていないかという内容だった。
まだ帰ってきていないというと、おっさんはそっけなく電話を切った。
それから何となく眠れず、弟とふたりでゲームをして朝まで過ごした。
明け方4時すぎに、おっさんが1人で帰ってきた。
おっさんはご飯を食べた後、何度も母親の携帯に電話をした。
スナックに迎えに行ったら、無断欠勤をしていると言われたとの事。
その日は学校を休んで、母のパート先に3人で行った。
パート先の人も驚いて、その休みの人に電話をかけたりしてくれた。
弟を家に帰し、何か連絡があったらおっさんの携帯に知らせるように言いつけて、私はおっさんと母が行きそうな場所を探し回った。
映画館とか、スーパーとか、洋服屋さんとか。
途中公衆電話から、家から持ってきた母の連絡帳に載っている人全員に電話をかけた。
結局母は見つからず、パート先の人の勧めもあったので警察に届け、その日は家に戻った。
家に帰っると、弟が「通帳が無い」と言い出した。
家中の荷物を確認すると、母の旅行鞄や、何着かの服、化粧品類がなくなっている。
置手紙一つ残さず、30万円を置いて私たちを捨てた母の心境は今も分からない。
ただ、当時は母がいなくなったことに対する怒りや寂しさや悲しみよりも、
保護者を失ったこと、大黒柱を失ったことによる今後の生活への不安で一杯だった。
自分は高校を辞めて働かなければならないだろう。
自分の稼ぎではこの家に住めないので引っ越さなければならない。
義務教育中の弟はどうすれば良いのか。
30万円で何ヶ月生活できるのか。
ぐるぐる考えている私に、おっさんが一言「明日はゆっくり休んで、明後日から学校へ行け」と言った。
おっさんに言われても…という気持ちはあったけれど、言われるがままにお風呂に入ると眠くなったので、部屋に戻って寝ることにした。
ちなみにこの頃2部屋あるうちの6畳をおっさんと母親が、10畳を本棚とかで仕切って私と弟が使っていた。
翌日、再度3人で警察署に。
荷物の話をすると、まずさきにおっさんだけ呼ばれた。
それから私と弟が同じ部屋に呼び出されて、
お巡りさんからとても丁寧に、母親は家出した可能性が高いということを説明された。
分かってはいたけれど、そう言われると一気に現実感が沸く。
ただ、弟とおっさんがいるから泣くにも泣けず、今後の生活の不満についてぶちまけたかったけれど、
話すと涙が出そうで何も喋れなかった。
家に帰って、私は蒲団にもぐりこんで泣いた。
弟もリビングで泣いている。
おっさんはどっかに行った。
この時点で、おっさんはもう戻ってこないのかと思っていた。
すると夜、3人分のホカ弁を買って戻ってきた。
食事中、おっさんに「明日からどうすんの? 」と聞くと、「学校に行け」帰された。
「ちがくて、そっちはどうすんの? 」
「オレ? 働くしかねえだろ」
このときはじめて、おっさんが私たちを養うつもりでいると言うことに気付いた。
今までニートだったおっさんにそんなことできるわけないし、
他人のおっさんにそこまでやってもらう筋合いもない。
だけど、学校に行けば先生がいる。先生に相談してみようと思って、学校に行くことにした。
翌日、朝早く登校し、職員室に行くと、担任に、別室に連れて行かれる。
担任は既に私たちの事情を知っていた。どうやら、昨日おっさんが来たらしい。
なんとか卒業させてくれって、おっさんに頼まれたんだって。
奨学金とか有るし、がんばって卒業しろって担任に言われて、2時間目から通常通り授業に参加した。
クラスの子は、いつもどおり接してくれた。
後々、うちの事情を知っているような言動が言葉の端々から時折出てきたので、
多分前日担任から事情を説明されていたのだと思う。
そう考えると、本当にいいクラスだった。
片田舎の公立のの女子高で、うちは就職クラスだったけど、すっごいギャルがいるわけでも、ガリ勉がいるわけでもなく。
女同士の諍いはたまにあったけれど、深刻ないじめがあったわけでもなく、派手な子ともオタクな子とも普通に喋ってたなあ。
学校にいる間は、みんなと同じ普通の女子高生でいられて、すっごく楽しかった。
弟も、部活のメンバーに恵まれていたし。
どんな生い立ちだろうと、家庭環境だろうと、受け入れてくれる人はたくさんいる。
それなのに、勝手に子供の将来を不幸だと決め付けて、私の兄弟を殺した父親は最低だと思う。
私は結局高校を卒業できたし、弟は公立の大学を卒業したのだけれど、
母失踪後家計を支えてくれたのは、おっさんだった。
おっさんは、青い縞シャツを着て、小脇に荷物を抱えながらダッシュする仕事に就いた。
刑務所帰りも逃げ出すと言われている例の会社だ。
ちなみに、おっさんと同時期に元自衛官が入社したらしいけれど、その人は半年で辞めた。
おっさんはというと、意外にもがんばった。
毎日6時に起きて、10時くらいまで働いた。酷い時は日付が変っても。
繁忙期は2,3時間寝に帰るだけということもあった。
休みの日は一日中家で寝ていた。
おっさんは私に毎月15万くれた。
毎月いくら貰っているのかは知らないけれど、自分を置いて逃げた女の子供に払うには、多すぎる金額だと思っていた。