堕とされた母
2018/05/02
堕とされた母
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「……まあ、越野くんは、日頃の生活態度も真面目ですし」
初老の担任教師が、慎重に言葉を選びながら続ける。
「そんなことをするような子じゃないってことは、私もわかっておるんですが。ただ…」
応接セットの低いテーブルに視線を向ける。
そこには、一箱の煙草と使い捨てのライターが置かれている。
「裕樹くんが、これを所持していたことも事実でして…」
「………はい」対面のソファに腰かけた佐知子は、固い表情のまま小さく頷いた。
卓上の“証拠品”を一瞥してから、隣に座った裕樹へと顔を向ける。
「裕樹。どうして、こんなものを持っていたの?」
「………」
「裕樹!」
項垂れたまま、なにも答えず、顔を向けようともしない息子の姿に思わず声が高くなった。
まあまあ、と教師にとりなされて、なんとか気を落ち着ける。
「……あなたが、自分で買って持っていたわけじゃないでしょう?裕樹が煙草なんか吸わないことは、母さん、よくわかってるわ」
教師の手前をつくろったわけではなく。
佐知子は完全に息子の潔白を信じていた。
だからこそ、本当の理由を釈明してほしかったのだが。
「…………」裕樹は頑なに下を向いたまま、肩をすぼめるようにしている。
それは佐知子には、見慣れた態度であった。
幼い頃から、気弱な息子の唯一の抵抗の方法。
「……どうして…」
ため息とともに、そんな言葉を吐き出しながら、しかし佐知子には薄々事情が洞察できてもいた。
「先生」佐知子は教師へと向き直ると、改まった口調で切り出した。
「……あ、は、はい?」
担任教師の返事は、わずかに間があき、うろたえた様子を見せた。
ついつい、この美しい母親の横顔や肢体に視線を這わせてしまっていたのだ。
状況を別にしても、教職者として不埒なことではあるが、同情の余地はあった。
受験を控えた中学三年クラスの担任となれば、生徒の母親に接する機会も多いが。
越野佐知子の容色は、最上等の部類だった。
派手やかではないし、年不相応に若々しいというわけでもない。
そんな押し付けがましさや不自然さと無縁の、しっとりと落ち着いた美しさである。
成熟と瑞々しさのバランスが、中学生の子を持つ年代の女性として、まさに理想的だと思えるのだ。
さらに、いまの佐知子の服装が問題だった。
紺色の薄手のカーディガンの下は、白衣姿なのだ。
看護婦である佐知子にとっては、あくまで仕事着だからおかしな格好というわけではない。
勤務中に学校から連絡を受け、大急ぎでタクシーで駆けつけたのだ。
それは、担任教師も承知している。
子を思う母心の表れだと理解している。
だが、ナースの制服とは病院以外の場所では、やはり浮いて見えるし。
妙に……扇情的であるのだ。
機能的なシンプルなデザインは、佐知子の成熟した肢体を強調して、隆く盛り上がった胸や、豊かな腰の肉づきを浮き立たせている。
膝丈のスカートからは、白いタイツに包まれた形のよい足が伸びている。
キッチリと揃えらえた、心地よい丸みの膝のあたりに、どうにも目を吸いよせられてしまいそうになる。
ゴホン、と無意味な咳払いをして、担任教師は佐知子と眼を合わせた。
白衣姿の美しい母親は、自分が、実直だけが取り柄の老境の先生さえ惑わせる色香を発散しているなどとは気づきもせず、固い表情で語りはじめた。
「先生。親馬鹿と笑われるかもしれませんが、どうしても私には息子が隠れて喫煙をしていたなどとは思えません」
「え、ええ。それは、私も…」
「ただ、男のくせに気の弱い子で……こんなふうに、自分の思っていることも満足に主張できないところがあって」
辛辣な言葉を吐きながら、横目で息子を見やる佐知子。
しかし、裕樹は俯いたまま、表情ひとつ変えない。
それが、ますます佐知子を苛立たせ、以前から抱いていた懸念を吐き出させた。
「そこにつけこまれて、他の子からいろいろと無理をおしつけられているのではないかと。はっきり言えば、“イジメ”を受けているのではないかと」
「あ、いや、越野さん、それは」
イジメ、の一言に、教師は過敏な反応を示し、裕樹もビクリと肩をこわばらせた。
佐知子は、再び裕樹へと体を向けて、
「どうなの?裕樹。あなた、三年のいまのクラスになってから、時々、傷を作って帰ってくることがあるじゃない。いつも、“転んだ”とか言い張ってるけど。あれは、殴られたりして出来た傷だったんじゃないの?」
「…………」
「あなた、他の子から、イジメられてるんじゃないの?この煙草も無理に押しつけられたものじゃないの?」
推測ではあるが、そうに違いないという確信が佐知子にはあった。
「この機会に、母さんと先生の前で全部話してごらんなさい。あなたがちゃんと事情を打ち明ければ、先生が…」
「ま、まあ、お母さん、落ち着いてください」
言質をとられるのを恐れたものか、慌てて口を挟む担任教師。
「……………」
しかし、懸命な母の説得にも、裕樹は頑として口を開こうとしなかった。
……家へと向かうタクシーの中。
裕樹はチラチラと隣に座った母の表情をうかがっていた。
佐知子は、窓の外に視線を固定して、不機嫌な横顔をこちらに向けている。
(……まずいなぁ)
母の本気の怒りを感じとって、裕樹はため息をつくと、自分も車外へと目をやった。
毎日通りなれた通学路の風景が流れ過ぎていく。
学校から越野家へは徒歩で20分ほどの距離だが、今日は佐知子の服装のことがあるのでタクシーを呼んだのだ。
夕方にしては混雑も少なく、車は順調に家へと近づいているのだが。
帰宅してからのことを思うと、裕樹は気が重かった。
相談室での、担任教諭との話し合いは、あの後すぐに終わった。
結局、煙草は“たまたま拾ったもの”であり、裕樹には何もお咎めはなし。
佐知子から追及されたイジメの件については、そのような問題は起こっていないの一言で退けて、担任教師は勝手に話を収拾してしまったのだ。
無論、佐知子にすれば、まったく納得いかなかったが、完全に逃げ腰になっている担任教師と、押し黙り続ける息子の態度に、矛先をおさめるしかなかったのだった。
住宅街の一隅、ありふれた一戸建ての前に車は停まった。
先に降り立った裕樹は、その場で母を待つ。
支払いを済ませた佐知子が車を降りる時、白衣の裾が乱れて、ムッチリとした太腿が、少しだけ覗いた。
佐知子は裕樹を無視するように、低い門扉を開けて玄関へと向かっていく。
裕樹は、慌てて後を追いながら、
「運転手が、ママのこと、ジロジロ見てたね」
「…………」
「やっぱり、看護婦の格好って、外だと目立つんだね」
なんとか母から反応と言葉を引き出そうと、裕樹なりに懸命だったのだが。
まあ、この場面には、あまり良いフリとは言えなかった。
ガチャリと、差込んだ鍵を乱暴にまわして、佐知子がふりむく。
「誰のせいだと思っているの!?」
「…っ!!」滅多に聞かせぬ怒声に打たれて、裕樹は息をのんで硬直し。
そして、泣きそうに顔を歪めて、うなだれた。
「………………」しばし、佐知子はキツく睨みつけていたが。
やがて、フウと深く嘆息して。
「……いいから。入りなさい」表情と声を和らげて、そう言った。
「…うん」ホッと、安堵の色を見せる裕樹。
佐知子は、開けた扉を押さえて、裕樹を中へと通しながら、
「……晩御飯の後で、ちゃんと話してもらうわよ。全部、隠さずにママに聞かせるのよ」
「うん」素直に、裕樹はうなずいた。
「急に、持ち物検査が始まってさ。押しつけられたんだ。預かっておけってさ」
夕食の後、デザートのアイスを食べながら、裕樹はアッサリと事実を明かした。
「誰に?」
「高本ってヤツ」名前を聞いても、佐知子には顔も思い浮かばないが。
「どうして、断らなかったの?」
「……後が、怖いからね」
「その高本っていう子に、いつもイジメられているの?」
「…いつもって、わけじゃないよ。時々かな」
「どうして、それを言わなかったの? さっきだって、先生に…」
「ムダだよ」
「どうして?」
「だって、宇崎の仲間なんだもん、高本って」
「ウザキ? 宇崎って…」
「宇崎達也。宇崎グループの跡取りだよ」
今度は、佐知子にもわかる名前だった。
というより、このあたりで宇崎の名を知らないものは、あまりいないだろう。
旧くは付近一帯の大地主であり現在はいくつもの企業を営み、厳然たる勢力を築いている。
現当主の弘蔵は県会議員でもあるという、いわば“地元の名士”とかいうものの一典型なのだが、宇崎達也は、その弘蔵のひとり息子だというのだ。
今まで、息子のクラスにそんな生徒がいることを知らなかった佐知子は、急に大きくなった話に困惑した。
「…今日だって、もしボクが高本の名前を出してたら、先生困ったと思うよ」
宇崎達也と、その取り巻き連中は、教師たちからもアンタッチャブルな存在として扱われているのだという。
「だから、本当は煙草くらい隠す必要もないんだ。風紀委員だって高本の持ち物なんか調べようとしないんだから」
「じゃあ?」
「多分、ボクを困らせて笑いたかっただけじゃないかな。ちょっとしたキマグレでさ。風紀のヤツも、持ってたのがボクだったから取り上げたわけでさ。高本のモノだって知ってたら、見て見ぬフリをしたはずだよ」
「……………………」
やけに淡々と裕樹は語ったが。
聞く佐知子のほうは、半ば茫然とする思いだ。
「……それじゃあ、まるでギャングじゃない」
「違うよ。宇崎は王様なんだ。高本たちは家来」
「裕くん、その高本って子に、目をつけられているの?」
「特にってわけじゃないよ。
時々からまれる程度。
ボクだけでもないし。
……高本って、バカだけど体は学年一大…