一生忘れられない夜 3
2023/06/21
「お祭りなんて久しぶりです」
結局、昨夜の俺の振る舞いを、彼女は気がつかなかったのだろうか。
仕事のときも、態度はなんら普段と変らなかった。
深夜に俺の部屋の戸を開けたのは何故かわからなかったが、すぐに閉めると自室へ帰っていった。
今もこうして俺の隣をつかず離れず、微妙な距離を保ちながらも歩いている。
この距離は知り合ってからのままだった。
俺たちがマンションの裏手に出てすこし歩くと、近所の子供たちが歓声をあげて脇を駆け抜けていく。
その先には小高い丘の上に、ささやかな緑に包まれた神社が見える。初夏の遅い夕暮れの気配があたりを包みはじめていた。
「そうですね、祭りというか、こういう縁日って俺も随分行かなかったような気がします」
俺が答えるとMさんは、口元に手をやり、「ふふっ」と笑った。
「やっぱり」
「え?」
「言葉。大事にしてらっしゃるんですね」
やわらかな、Mさん独特の笑顔が胸に沁みる。
「ああ、すいません。揚げ足とるつもりはないんですけど」
言ってる当人としては悪意などないのだが、どうも世の中にはそう受け取る人も多くて、敬遠されることも多い。
「いえ、いいんです。わたし、その方が安心できるんです。こっちのいうことをちゃんと聞いて、ちゃんと考えてから答えてくれてる気がするんです」
そういうことを言われたのははじめてだ。
ささやかな祭りでも、神社の境内に近づくにつれ喧噪が大きくなっていく。
「縁日かあ…。なんか懐かしい感じしますよね」
Mさんの言葉に、俺は頷いた。
以前の職場が近在の市町村の祭りに協力することが多かったため、俺もよく駆り出されたが、それは「祭り」というより「イベント」と呼んだ方が相応しく、こういう昔ながらの縁日は随分行ってなかったような気もする。
「あ、浴衣」
不意にMさんが指差した先に、浴衣を着てはしゃぎ廻っている子供達がいた。
時期としては些か早いが、お揃いの金魚の柄は手作りなのか。一目で兄弟とわかる。
「なんか、いいですよね。子供の頃に見たような、懐かしい感じがしません?」
「日本の原風景のひとつですからね。懐かしいのもわかりますよ」
言いながら、俺は改めてMさんの方をそっと見やった。
白いバックスキンのセカンドバックに、これもクリームホワイトのヒールの低いパンプス。彼女の清楚なイメージにぴったり合っていた。
浴衣こそ着てはいないが、同じくらい懐かしい感じがするのは何故だろう。
やがて辿り着いた神社もなかなか風情があった。
小さな丘の麓にやや不釣り合いな大きな鳥居の前の狭い広場に、焼き烏賊や焼きトウモロコシ、それに綿飴やポップコーンなどの出店が並び、香ばしい匂いを漂わせている。
その匂いは、一日の仕事を終えた身に空腹を思い出させ、俺たちはあっさり白旗を揚げた。
俺はトウモロコシと牛の串焼き、Mさんは焼きそばと、それに焼きリンゴを手にとり広場に設けられたテントの中に場所をとった。
「今日はこれを晩ご飯にしましょうか」
俺が言うと、Mさんが
「はい。あの、なにか飲み物を買ってきましょうか?」
と訊いてきたのでビールを頼むと、彼女はほどなく2本のキリンラガーを抱えてきた。
「え、Mさんも飲むの?」
「わたしだって飲みますよお。あ、お金はいいです。昨日冷蔵庫にあるやつ飲んじゃいましたから」
言われて、昨夜ガラスの向こうに揺れるMさんの裸身が頭に浮かんだ。が、なんとか俺は表情を変えずに
「そんなの気にしなくていいですよ。買い物は二人で割り勘にしてるんですから」
と答えることが出来たと思う。
「はじめてですね、外でふたりでごはん食べるの」
続けてMさんが言った。
「これってデートみたいですね」
彼女がどんな想いでそれを口にしたのか、俺はそのとき気づかなかった。
「デートですか、なんか変ですよね。先に同じとこに暮らしといて」
答えながら俺は昨夜のことにこれ以上話題が向かないことを祈りながら、ひたすら食べ物を咀嚼し、ビールを流し込んだ。
そうこうしているうちに、あたりを夜の帳が覆ってゆき、空には星が次第に瞬いてきた。
串や発泡スチロールのトレイ、ビールの空き缶を捨てに行ってから、彼女は
「暗くなってきましたね。せっかくだから上に行ってみましょうか」
と言った。そうですね、と答えて俺は席を立った。
「なんか、人が居るからいいですけど、普段来たら怖そうですね」
鳥居を潜ると思いのほか急な狭い石段が並び、丘の上の境内に続いているらしかった。
「わあ、なんか「日本の夏」って感じですよねえ。Nさん?」
石段を上がりながら、Mさんは俺に訊いてきた。
「「日本の夏」って言ったら、Nさんは何を思い出しますか?」
不意の問いかけに、俺はあとあとまでその答えは無いだろうと思う答えを言った。
「…女優霊」
よほど意外な答えだったのだろう。Mさんは足を止め階段の途中でまじまじとこちらを見たのも一瞬、おなかを抱えてくつくつと笑い出した。
「うふふ、Nさん、それおかしすぎ」
「リング」が面白かったというので、そのシリーズ第一作目の監督がメガホンをとったこの映画を奨めたのだが、日本らしい風情を存分に生かしながら、ホラージャパネスクの新しい世界を拓いた作品。彼女は怖がりながらも大いに気に入ってくれた。
「おかしかないでしょ。あれこそ日本の夏ですよ」
わざとしかつめらしい表情をつくって答えると、彼女はいよいよ大きく笑い出した。
「あははは、そうですけど…ああ、おもしろい!Nさんって」
境内のどの子供よりも無邪気に笑うMさんが、心の底から愛おしかった。
「さ、こんなとこで立ち止まってたら邪魔ですよ。はやく上に行きましょう」
なかなか笑いの納まらないMさんを促し、俺は境内まで上がった。
そこはさきほど下から眺めたちいさな丘の上だと、にわかに思えないような、意外に広い空間が広がっていた。
平たい石を敷き詰めた参道の両横に、灯籠があたたかな光を滲ませているその間に、金魚掬いや面売り、おもちゃの露天商が軒を並べている。
「わあ…」
つい今しがたまで納まらなかった笑いを忘れ、Mさんは目を輝かせた。
「綺麗…」
まさしく古きよき「日本の夏」だった。
「ええ、こんなのはホント、子供のとき以来ですよ」
今もこういう昔ながらの縁日があるのだろうか。案外気をつけていないと気づかないだけで、そこここに廃れずに残っているのかもしれない。
祠に手を合わせたあと、二人は境内の露店をひやかして歩いた。出張中の身なので金魚こそ掬わなかったが、Mさんはなにやらアクセサリーの露店で買い物をした。
あの時間、ふたりで過ごした境内を俺はきっと忘れないだろう。
名残惜しかったが、翌日は仕事が終わったら、俺は長い距離を車で運転して帰らなければならない。
「あの…」
マンションへの帰り道、Mさんは躊躇いがちに訊いてきた。
「彼女さんとは、こういう祭りにはよく来られるんですか?」
それはまるでなにか悪い事をした子供が、大人の顔色を伺うような表情だった。
「いえ。こんな祭り自体があまりありませんでしたから」
そう言ってから、我ながらズレた答えだと思ったので
「夏はよく、花火大会に行きましたね。尤も彼女が人ごみが苦手なので、すこし離れたとこから観てるんですけどね」
とつけくわえた。
「いいな…」
Mさんはつぶやいた。
「いいな、Nさんの彼女さん…」
うつむいた顔は、どこか寂しげだった。
唐突に目の前の細い方抱きしめたくなる衝動に駆られた。が、人前でそうできるわけもなく
「Mさんの彼氏はつれていってくれないんですか?」
と訊くに留めた。
「はい」
頷くMさんになんと言ってよいかわからず、俺は
「地元に帰ったら彼氏に言ってみたらいいですよ」
と言った。我ながら、空疎な言葉だった。
「そういう意味じゃないんです」
Mさんは顔を逸らせるとすこしだけ足を速めた。声が頼りなく揺れている。
「…お祭りに行けるから羨ましいんじゃないんです」
その言葉の裏にある意味を考えて、ある答えが胸中に浮かび、俺は鼓動が急に速まるのを感じた。
まさか…。それは自惚れだったかもしれない。だが…
「Mさん…」
横に並んだ俺を振り払うように、彼女はマンションの入り口へ駆け込んだ。
後を追う俺の目の前を、ワンピースの長いスカートがひらめく。
声を掛けようとしたが、他の部屋の前ではそれも躊躇われ、俺がMさんに追いついたのは部屋に戻ってからだった。
「どうしたんですか。Mさん」
リビングに続いて入り、Mさんの細い肩に手を掛ける。
「黙ってちゃわからないですよ」
「いいんです」
振り向いたMさんの瞳は大きく見開かれていた。そう、涙がこぼれるのを少しでもこらえるかのように。
「わたし、ちょっと変なんです」
その顔を見たら普段の俺なら追求しなかったかもしれない。だが
「変でもいい。Mさん、俺は…」
「彼女さんに悪いですっ」
肩に置いた手を振り払おうとしたMさんだったが、その力は弱かった。
構わず俺はMさんを抱きしめていた。抗おうとはしない彼女の細い身体が、想いを押さえていたのが俺ひとりでないことを語っていた。
「Nさんといっしょにいられるのが羨ましかったんです…」
こらえきれずに続く嗚咽に、俺は答えた。
「いま!今、俺が抱いてるのはMさんだから!!」
一生忘れられない夜が始まろうとしていた。
「…でも…明日にはNさん、帰っちゃうんですよね…」
腕の中で震える細い肩。
「今は明日じゃない」
「…彼女さんのこと、好きなんでしょ…」
「じゃあMさんのことが好きな俺はどうなるんですかっ!」
え、と彼女はなにか信じられないようなものを見る表情で俺を見上げた。化粧っけのない頬に涙が光っている。
「だって…」
「本当ですよ」
俺はまっすぐMさんの眼をみつめて言った。
「俺はMさんが好きです、どうしようもないくらいに」
この歳になるまで「涙が溢れる」という表現は文学的修辞だと思っていた。
だが見開かれた彼女の瞳がみるみるうちに潤み、綺麗なしずくがとめどなく流れていくのを見て、その言葉は本当だと知った。人の涙というものがこんなにも多く蓄えられているということも。
その瞳が閉じられたのと、俺がゆっくりと顔を近づけていったのと、どちらが先だったかはさだかではない。
憶えているのは、甘くやわらかなMさんの唇の感触に、涙の味が混じっていたこと。
そして腕を廻した腰が、信じられないほど細かったことだ。
どれだけ二人が唇を重ねていたのかはわからない。短い時間ではなかったと思う。
やがて唇を離し、俺はあらためてMさんを先程にも増して、きつく抱きしめると、彼女の両腕が俺の背中に廻された。
「…キス、しちゃいましたね…」
消え入るような声でMさんが呟く。
「うん」
左手で彼女の腰を抱き、右手で艶やかな髪を撫でる。押し当てられたような二つの胸の膨らみが心地よい。
「ずっとMさんとこうしたかった」
「本当に?」
「うん。でも「なにもしないから信用してくれ」って言ってたし」
「信用、してました」
彼女は俺の肩のあたりに顔を当てたまま続けた。
「でも、信用できるひとだから、好きになったんです」
俺にしがみつく両腕に、さらに力がこもった。
「莫迦ですね、わたし」
「俺のほうがもっとバカですよ」
「いつから、こうしたかったですか?」
「はっきりと意識したのは昨日かな。でも多分はじめて会ったときから、すこしづつ好きになっていったんだと思う」
俺が正直に言うと、彼女も多分同じだったと答えがあった。
「でも信用してもらうと、かえってなにもできないものだから。けっこう苦しかった」
「え、信じてましたけど…それにわたし、そんなに色っぽくないから…。だから昨日わたしのこと「男の目で見て」って言われて…それではっきり自分の気持ちがわかったんです」
Mさんの予想外の言葉だった。
「あれ言ったあとで後悔したんです。それまでせっかくうまくやってたのに、って。Mさんに「いいひと」って思って欲しかったし、嫌われたくなかったから」
「いいひとじゃ…ないんですか?」
心無しか彼女の言葉に熱がこもった。
「いけないひと、なんですか?」
「ええ、多分」
俺は決意した。
「これから俺は、すごくいけないひと、になります。嫌われたくなかったけど、自分を抑えきれない」
婚約者が、彼氏がいる。出張先で知り合った同僚にすぎない。なにより、気楽に行きずりに身体を重ねていいようないい加減な女じゃない。
しかし
「Mさん、あなたを、抱きたい」
その言葉は確かに自分の口から出たのに、奇妙に現実感を欠いて、俺の耳に響いた。
数秒間、部屋から、いや世界からいっさいの物音が消えた。その沈黙をMさんの言葉が終わらせた。
「…わたしも…今夜だけ、悪い子になります…」
ふたりして、後戻りできない世界へ足を踏み入れた瞬間だった。
俺はMさんのかたちのよい顎を上に向け、再び唇を重ねた。最初のよりも更につよく、深く。互いをむさぼるように。
舌を差し込むと、彼女のそれがまるで別の生き物のように激しく絡み合う。普段のMさんからは考えられないほどで、このひとが奥に秘めた熱情の激しさを感じた。
まるで呼吸するのも忘れ、そうしないと死んでしまうかのように、俺たちは激しく求め合った。
その場ですぐにでも押し倒したくなる情動にかられたが、さすがにフローリングの固い床に華奢な身体を組み伏せることは思いとどまり、俺は彼女を俗にいう「お姫様だっこ」のかたちで抱え上げた。
「あっ」と彼女の口から声が漏れた。
「シャワー、浴びなきゃ…」
「駄目」
俺は言った。
「待ちきれない」
いったん火がついた心と身体がそれを許さなかった。
俺の部屋は大きめの窓があり、薄いレースのカーテンしかないため彼女の部屋のドアを開けた。
中を見たことはなかったが、女性が何日も過ごしていたわけだから流石に外からは見えない程度の普通のカーテンが掛かっている。
彼女の頭や足がドアにぶつからないように注意しながら部屋に入り、広げられたままのソファーベッドにゆっくり横たえる。
そこでいったん身体を離すと部屋の灯りを豆球にした。
「汗、かいちゃってますよお…」
Mさんは言ったが、それほどつよく拒絶する響きは感じられない。
「いい。どうせこれからいっぱい汗かくから」
「…もう」
薄暗い灯りの下でも、彼女の顔が赤くなったのがわかった。
「Nさんのえっちい…」
その表情がいかにも愛らしい。
「Mさんがいけないんですよ」
「え?」
「あんまり可愛いから待ちきれない。駄目ですか?」
Mさんは消え入りそうな声で訊いた。
「駄目、って?」
「今すぐに抱きたい、ってこと」
「駄目なわけ、ないじゃないですか…」
そう言って視線を恥ずかしげに逸らす仕草がたまらなく愛おしい。
「よかった」
俺はMさんのおでこにそっと口づけた。
「やっぱり、可愛い」
「そんなこと、言われたことないです…」
「全然言われたことない、って訳じゃないでしょ?」
誰もが振り返るほどの美人ってわけじゃないが、整った顔立ちは充分に美人の範疇に入る。
本人の控えめな性格といまどき珍しい清楚な雰囲気が、気軽にそれを言い易くしていないだけだろう。
「それは…すこしくらいは。でもこんな風にまともに言ってくれたのはNさんくらいですよお…」
「可愛いですよ、Mさんは」
俺は思わず笑った。
「だから抱きたいんですよ」
そのまま、涙の残る目尻に、頬に、かたちのいい唇にくちづける。
やがてそれが白い喉から首筋、胸元に移っていくと、接近した彼女の唇から漏れる息がかすかに、しかし確かに荒くなっていく。
そしてそれは、俺の手がMさんのブラウスの胸に置かれたときに「あっ」という小さな声になった。
そっと掌に力を込めると、充分な手応えが返ってきた。
「あ、あっ」
思わず俺の手にMさんの手が重なった。が、拒絶してるわけではもちろんなく、かまわずにそのままゆっくりと揉みしだく。
「やわらかい…」
布地越しにもMさんの乳房の柔らかさが伝わってくる。
「そんな、わたし、胸おっきくないし…」
少女のように恥じらう表情とはうらはらに、その感触は大人のものだった。
「はやく見てみたくなった、Mさんの胸」
いっそそのままブラウスを引きちぎってしまいたい衝動を抑えつつ、ボタンをひとつひとつ、ゆっくりと外していく。と僅かな灯りのなかに、白い肌がすこしづつ露になっていった。
俺の手を持ったMさんの左手が、ぱたり、とベッドの上に落ちた。
ウエストのあたりまである細かいボタンを全て外し、俺はそっとブラウスの前を開いた。
それは魅惑的な眺めだった。
ブラウスの下にはスリップはつけていず、純白のハーフカップのブラジャーに包まれた胸が、荒くなった呼吸にあわせて上下している。
上質のシルクを思わせるような滑らかな肌、美しい曲線を描く腰のくびれ。目を奪われるとはまさにこのときの光景だった。
「うわ…」
思わず感嘆の声が俺の口から漏れた。
「恥ずか…しい…」
今更ながらブラウスの前を合わせようとするMさんの手を掴み、俺は彼女の上体を抱き起こした。
ブラウスをそっとおろす、と細いながらも女性らしいまるっこい肩が露になった。
起き上がると意外に両の乳房のあいだに谷間ができる。
一気にブラジャーをずりおろして、一刻もはやく中身を見たかったが、ガツガツしてみられるのが嫌で、目は胸元に釘付けになりながらも、俺はできるだけ丁寧にブラウスの袖から両腕を抜いた。
それに実際、Mさんの下着姿もなかなかに眺めがよかった。
スリムではあるけれど美しい曲線を描くそれは、まさに大人の女性のもので、匂うような色香を放っていた。
「スタイル、いいね」
掛け値無しに本音だったのだが、Mさんは「そんな…」と消え入りそうな声を出すのがやっとのようだった。
真面目を絵に描いたような彼女にとって、知り合って間もない男の眼に半裸をさらすのは、やはり恥ずかしいことだったのだろう。
肩に手をあてると、微かな震えが伝わってくる。いや、あまりのMさんの肢体の美しさに、俺の手が震えているのか?にわかに判別はつかなかった。
そのままそっと、肩から背中へと掌を滑らせると、きめの細かい肌の感触が心地よかった。
Mさんはもはや声も出せずにじっとしていたが、指先がブラジャーのホックをとらえると、ぴくり、と身体が動き、両腕が胸の膨らみを覆った。
ホックはあっけなくはずれた。
ストラップを肩からはずしブラジャーを抜きとろうとするが、胸のまえで両手を組んだ格好になっているので、肘のところで引っ掛かってしまっている。
一度決心したとはいえまだ抵抗が残っているのか、思ったよりも頑なに力がこもっている。
ここで両腕を力任せに引きはがすことは簡単だが、できるはずもない。
Mさんもなにか戸惑うような表情でこちらをみつめている。
「Mさん…」
俺はどうしていいかわからずに彼女の頭に手をやり、子供にするように撫でながらできるだけ穏やかに言った。
「ちから、抜いて」
その声をきっかけにしたかのように、Mさんは何度か瞬きをしたままこちらをみつめたていたが、やがてゆっくりと腕をおろす。
徐々に裸の胸が露になっていく。それは夢のような光景だった。
思わず俺の口から声が漏れる。
「…綺麗だ」
それほどMさんの乳房は美しかったのだ。
なだらかなやさしい曲線を描くふたつのふくらみ。その頂きには薄い色の蕾のような乳首が、可憐に揺れている。
それほど大きくはないが、彼女が言う程小さくもない。
むしろ服の上からは想像できなかった量感が、彼女が大人の女性であることを教えている。
なにより、そのかたちがよかった。
「綺麗ですよ、Mさん」
俺はもう一度感嘆の声をあげた。
「…恥ずかしい、です…」
手首のあたりに残ったブラジャーをとると、彼女は俯き、消え入りそうな声で言った。
暗い部屋の中でも、この顔が真っ赤になっているのがわかる。
触れずにそのまましばらく眺めていたい気持ちと、はやくじかに触れてみたい気持ち。両方が心の中でバランスしていたのは一瞬のこと。
後者が勝り、ゆっくりと興奮で震える手を伸ばした。
Mさんの左の乳房に俺の右手が重なった。吸い付くような感触。素肌が綺麗な彼女のなかでも、そこはとくにきめ細かくデリケートな手触りがあった。
おそるおそる掌を動かすと、とろけるような柔らかさが返ってくる。少女のような張りが勝ちすぎるものでもなく、熟女のようにやわらかすぎるものでもない。
魅惑的な柔肉が俺の掌の中で形を変え、あるいは指を押し返す。
「素敵ですよ、Mさん」
なにかに縛られたようにじっとしているMさん。唇を噛み締めるようにして言葉も出ない。
俺はたまらず左手で彼女の細い腰を抱き寄せ、胸元に顔を寄せた。
Mさんの美乳を下からすくいあげるように揺すって揉み、その裾野に舌を這わせる。
それが脇の方に進んだとき、彼女の唇から小さな声が漏れた。
「……あっ」
吐息とも区別がつかないような微かな声ではあったが、間違いなく女として官能に浸りはじめた喘ぎ声だった。
それを耳にしたとき、下腹部に熱い衝動が疼いた。
そっとMさんの肢体を横たえようとして、今度はそれに勝てなかった。
一気に彼女を押し倒したのだ。
ハッとMさんが息を飲むのが聴こえた。
「ああっ、Mさん!」
オーバーシャツを脱ぎ捨てるのももどかしく、俺は文字通り彼女にむしゃぶりついた。
首筋から胸元に吸い付き、やわらかな乳房を両手で鷲掴む。
「う…うン」
Mさんが苦しげに喘ぐ。
優美な膨らみの裾に舌を押し当て、円を描くように舐めていく。やがてその可憐な先端に到達したとき
「ふあっ、あン!」
と、ひときわ大きな声がMさんの喉から迸った。
多くの女性と同じく、ここは特に感じるのだろう。
普段のMさんからはなかなか想像できない甘い声にたまらず、小粒な果実を思わせる乳首に吸い付く。
「んああっ!あうン」
先程よりも一段とトーンの上がった嬌声。手応えを確信した俺は、なかば意識的に音を立て、コリッとしはじめた乳首をしゃぶり続けた。
「ああ、アン!は…ウン!」
Mさんはいやいやをするように首を振り、脚をばたつかせた。
腰のあたりでひっかかったブラウスのスカートが乱れ、白い花のように開く。
いや。
脚だけではない。めくれあがったスカートから覗く腰が、円を描くように動いている。
昂りはじめた官能に、俺は自分のTシャツの裾を掴み、一気に脱ぎ捨てた。
綿パンを脱ぐのに、焦りでベルトを外す指がもたついたが、どうにかトランクス一枚になり、俺はMさんの腰にまとわりついたブラウスを脱がせにかかった。
ウエストが細くくびれているため、腰回りとのギャップが意外にあり、思ったよりも脱がせにくく苦戦していると、どこか躊躇いがちではあるがMさんが腰を浮かせてきた。
思わずMさんの表情を確かめたい衝動にかられたが、なんとかこらえてワンピースになっているブラウスを腰から抜くことに専念する。
と、シンプルな白いショーツに包まれた丸みを帯びた腰、やや細めではあるが女性らしい太腿が現れた。
無言のまま彼女は、軽く曲げた膝を揃えを抜き取りやすくしたので、残ったブラウスを脱がせるのには手間取らなかった。
長い脚を完全に露出させたその姿は、実はある意味もっとも見てみたかった光景といえた。
仕事中は綿パンを履いていることもあって、Mさんの脚の長さは際立っており、更にすっと背筋をのばした姿勢の良さもあって、その立ち姿に見惚れたことは一再ではない。
特に後ろから見ると高い腰の位置とあいまって、まるいヒップがクリクリと動くさまはなかなか他の人で拝めるものではない。
昨晩俺が「スタイルがいい」と言って褒めたときにも、じつはそのことが念頭にあった。
おそらく多くの男性が憧れたであろう、Mさんの長い脚とかたちのいい尻が、薄い布切れ一枚残して自分の眼前にある。
興奮しない筈がなかった。
まっすぐ伸びた脚に手を滑らせながら、俺はMさんに顔を近づけて言った。
「脚、ほんとうに長いですよね」
すべすべした触感も心地よい。
「あまり、見ないでください…恥ずかしいから」
上気した顔には羞恥の表情の中に、どこか嬉しそうなニュアンスが微量に混じっていたような気もしないではない。
「なんで?こんなに格好いいのに。まるでモデルさんみたいだ」
「でも…でもじっと見られたら恥ずかしいじゃないですかあ…」
その恥じらう顔すら見られたくないかのように、Mさんは俺の胸元に顔を押し付けた。
その仕草がこうまで可愛らしいと、かえってもっと恥ずかしがらせてみせたくなってしまう。
わざとMさんの耳元に顔を近づけた。
「だって前からMさんの脚、長くて格好いいなあ~って思ってたんですよ」
俺の裸の胸にしがみつく腕に、ますます力がこもる。
「友達とかにもよく言われませんか?Mさんの…」
「…もう!やめてこださいよお~」
普段の姿勢の良さからは想像もできないくらい、彼女は身をまるく縮めてなかば悲鳴のような声をあげた。
少しばかり予想を超えたリアクションの大きさに
「Mさん?」
俺は彼女の顔を覗き込もうとすると、彼女はしがみついていた手を離して顔を覆った。
「駄目…」
笑っているのか泣いているのか、俄に判断しかねる声に、唖然とする。
「どんな顔していいか、わからないじゃないですかあ……」
どうやら本気で困っているらしい。
俺はすこし慌てた。それほど言葉でいじめたつもりもないのだが、彼女にとってはどうもそうではないらしい。
なんとか取り繕うとも思ったが、下手なことを言っては逆効果な気もして、俺はあっさり白旗をあげた。
「ごめんごめん。こんなに照れるとは思わなかったから」
子供のように縮めた優美な肢体を抱きしめて謝った。
艶やかな黒髪を撫でつつなだめると、こわばっていた身体からも次第に固さがとれてきた。
やがて、Mさんは顔を覆っていた手を離し、再び俺の背中にまわしてきた。
やわらかな乳房が胸板に当たるのを感じ下腹部が疼いたが、なんとかこらえてそのまま彼女を抱き続けた。
「…もう…Nさんいじわるすぎい…」
ややうわずってはいたが、なんとか落ち着いたらしい声を聞いてほっとする。
「すいませんでした」
俺はもう一度謝った。
「いじめるつもり、なかったんだけど。こんなに恥ずかしがるとは思わなかったから。ホント、ごめん!」
「いえ!違うんです」
Mさんは俺の方を、ちら、と見上げるとすぐに顔を伏せて言った。
「こういうことしてるときに、あんなに褒められたことなかったから…」
その言葉はしかし、俺の胸中に鋭い痛みを伴って届いた。
ああ、このひと、付き合ってる男の人がいたんだ。
あえて考えないようにしていたが、紛れもない事実だった。
にがい味が自分のなかに湧きおこるのを自覚する。
眼前の美しい裸身を抱いている男が居る。
どうしようもなく理不尽なものに対する憤り。
これは、嫉妬だ。
身勝手なことだが、自分に婚約者がいることは棚に上げていた。
重苦しい感情が身中を渦巻き、やがて行き場を求めてひとつのベクトルに収斂していった。
このひとを、自分のものにしたい。
自らの身体の中にあったとは信じられない、狂おしい衝動。
完全には御しかねるようなそれを、懸命に抑えようとしながら、俺は彼女に覆いかぶさった。
「Mさん」
魅惑的な唇を奪おうとしたが、そうすればいよいよ自分の箍がはずれそうになる。
かろうじて額に口づけて、右手はやわらかな乳房をまさぐった。
Mさんはそっと目を閉じた。
このときの俺には、彼女の言葉がどれだけの重みをもっていたのか、知る由もなかった。