さや4
2021/11/26
沙耶はコーヒーを口にする。
すっかり冷めた飲み物だ。
俺は正座をしている。
そんな俺を沙耶は仁王立ちで見下ろしていた。
「ねえ、こーくん」
「ごめん、としか言えない」
「一時の気の迷いだよね?」
言葉選びに悩む。
こんな劣勢、親からも受けたことはない。でもすべては俺のせい。重々承知している。
「黙ってたってわかんないんだけど……?」
強気な沙耶はあのレンズの向こうで無垢に動く少女とはちがう。恐怖でしかない存在だ。
「ケーサツ呼ぶ?」
「いや、ま、まま、待ってくれ! それは……」
「じゃあ話せるよね?」
沙耶は地べたにぺたりと腰を下ろす。
目線が重なった。笑顔はない。俺には恐怖がある。
「……ねえ、こーくん。あたしの裸見て、なにがうれしいの?」
すげえ質問。
だが答えない。答えられないが正しい。なんせ声が出ないんだから。
「それってさ、最低なことだよ。相手の同意なく裸にして、その、アソコいじってさ。精子つけてさ」
「……はい」
「気持ち悪いよね」
俺は吹っ飛びそうだった。
言葉で殴られた。ガツンと後頭部を。鼻血が出てもおかしくない。失禁しそうな気分になった。
するといきなり、沙耶は俺の胸ぐらをつかんだ。
「セックスしたいんだ?」
「……いや」
「ウソツキ」
そう言って、沙耶はテーブルの携帯をつかんだ。
マズイ。
警察か?
もしくは妻かもしれない。
俺は走って、沙耶の手をつかんだ。
「なに?」
「や、やめてください」
「なにを? ケーサツ? お姉ちゃん? お母さん? なに?」
まくし立てるその声すべてが冷たい。
心がつららで刺されたようだ。ジワジワと痛みが押し寄せる。
「なんでもするからさ」
と、俺は膝をついて頭を下げた。
「頼むから許してくれ!」
額がフローリングに当たった。痛みはある。でもそれより沙耶の落ちてくる視線の方が何倍も痛かった。
何分の時間が流れたのだろうか?
長い沈黙を抜けて、沙耶はしゃがんだ。
そして俺の肩をつかむと、体をグイと自分の方に引っ張った。
俺は理解できないまま、ただ犯行はしなかった。
「……こーくん、なんでもするの?」
「うん」
沙耶はさらに俺を引き寄せた。
体はもう密着していた。
つまり抱きしめ合っていたのだ。
「さ、沙耶……ちゃん……?」
「あたしも子供がほしい」
「子供って?」
「今、一緒の人ね。結婚するの。誰にも言ってないけど」
「そうなんだ。で?」
「最近言われたよ。ぼくは子供ができにくい体質なんだ、って。精子ができづらいっていうのかな? 詳しくは知らないけど」
「それで精子の匂いがわかったのか?」
「そういうこと。エッチの後に精子確認したり色々したからさ」
と、沙耶はゆっくり俺を引き剥がした。
顔はほのかに笑っているように見えた。
しかし安堵してはいけない。まだ完全に終わったわけじゃないんだから。
「でも無理だよ。バレるに決まっている」
「じゃあケーサツ行く?」
なんて女だ。
そう思った。
そもそも悪いのは俺なのに、まるで立場が逆にでもなったように、沙耶を軽蔑しそうになった。
「そもそも沙耶ちゃんは結婚してないだろ? そういうのは結婚してからでいいと思うんだけど」
「うん。結婚してからでいい」
……まだわからない。
これはそもそも脅迫なのか?
状況が読めない。沙耶がわからない。
それから俺は盗撮をしなくなった。
沙耶に怯えているからだ。それから沙耶はいつものように接してくれた。家族が家族に接するような、そんな当たり前の態度だ。
一年にも満たない月日が流れて、沙耶は籍を入れた。
純白のウェディングドレスを身にまとった彼女の裸を、俺はもう想像できなかった。
結婚式、二次会を終えて、俺は外にいた。
東京なんてなかなか来れない。
いまは一児のパパ。あの盗撮魔が、だ。未だに俺は怯えている。沙耶が暴露するんじゃないかって。
二次会のレストランのトイレへ向かい出るとき、沙耶とかち合った。
「おめでとう、沙耶ちゃん」
「ありがとう、こーくん」
沙耶はシンプルな白のワンピースに着替えていた。長く美しい体はやはり変わらず素敵だ。
「新婚旅行はどこに行くの?」
「ニューヨーク。明日には経つよ
「そっか」
と、沙耶は照れくさそうに頭を掻いた。
「楽しんで来てね。俺はもうホテルに戻るわ」
「あっ、待って」
沙耶はきょろきょろと周りをうかがい、そっと耳打ちした。
「今、空いてる?」
「空く、って?」
「えー!」
沙耶はびっくりして、俺の手をつかんだ。
その時、俺の中であの日が蘇った。
「……あのさ、沙耶」
察したのか、沙耶はうなずいた。
「ふふ。今日、チョー危険日だよ」
「マジでやるの?」
「うん。そいで旦那のせいにする。大丈夫だよ。あたしもこーくんもA型だし、旦那もこーくんも目も体も細いし」
「いや、本当にマズイって」
「でも、セックスしたいんでしょ?」
ちがう。
俺はセックスじゃなく、レンズ越しのお前を愛していたんだ。無垢に服を脱ぎ、何食わぬ顔で体を拭くお前を。
「すぐ終わればいいよ。中にちょいと出してくれればさ」
「勃つかなあ。緊張する」
「あたし、結構気持ち良くできると思うよ」
沙耶は満面の笑みで俺の手をつかむと、俺の部屋へ無理矢理入った。別に夢でもなかったセックスが始まる。最悪だ。
沙耶、お前の子供なんていらなかった。
まさか本当にできるなんて。
こうして俺は二人の子の親になった。
しかし一人の子は遠くにいる。
沙耶から送られる何気ないメールは、俺にとって恐怖でしかなかった。
もう盗撮なんてしない。
さや。
代償がいくらなんでも……大きすぎたよ……
〜おわり〜
筆者:maco